※桜の美しさが靖国の御霊達をも癒すでしょう的な、なんかそんな意味w
こんにちは!
つらたんです。
さて、今回は東京都千代田区にある「靖国神社/やすくにじんじゃ」をご紹介したいと思います!
まあ、度々ニュースで取り上げられてますし、日本人なら知らない人はいないんじゃねえかってくらい有名な神社なので、説明不要かも知れないですが(^ω^;)
こちらの神社は特定の神様ではなく、過去の戦争で亡くなられた方々を祀っている神社になります。
実は僕、靖国神社を参拝するのは初めてではなく、今回で三回目なんですよね。
で、今回改めて参拝した目的としてはふたつ!!
① 新元号「令和」が発表されたので、国に命を捧げた方々にご挨拶! ② 靖国神社は桜の名所なので、お花見したい♪ |
という感じ(^ω^)
因みに神社なので言うまでもないですが、花見と言っても酒盛りじゃないですよ?w
神社の桜を愛でて、楽しむだけですw
東京って桜スポットはそこそこありますが、桜がたくさん見られる神社仏閣ってあまりないんですよね(^ω^;)
桜が1~2本っていうのはあるんですがw
こういう場所が少ないってのも、関東大震災や東京大空襲の影響なのかなあ?
えー、それでは、靖国神社参拝記!
行ってみよ!!( ´ω` )ノ
あ、今回の記事もクッソ長いっすw
目次
1. 靖国神社とは?
では先ず、
靖国神社ってどんな神社?
ってところから。
冒頭でも書きましたが、靖国神社は国家の為に命を捧げ、亡くなられた方々を祀る神社です。
つまり、日本という国の為に行動し、それによって命を落とした方々を敬う場所ということですね。
靖国とは「安国/平安な国を願う」を語源としているそうで、創建は明治2年(1869年)、明治天皇によって「東京招魂社/とうきょうしょうこんしゃ」が建てられたのが始まりとのこと。
そして現在は、246万6584柱の方々がお祀りされています。
それでですね?( 'ω' )
一応誤解されやすい部分かなと思うので書いておくと、靖国神社は、
第二次世界大戦の軍人を祀っている神社
と考えられがちですが、
全くそんなことはないです!(`・ω・´)+
江戸末期に起きた戊辰戦争(1868年/江戸幕府と新政府軍による内戦)以降の御霊も祀ってますし、創建も明治なので第二次世界大戦よりもずーっと前からある神社なんです。
また、祀られている方も軍人だけではなく、民間人、女性、子供もいますし、台湾・朝鮮出身者も祀られています。
僕の個人的な考えとして靖国は、日本人が持つ概念
「死んだらみんな仏様」
が根本なんじゃないかなと思ってます。
そして、それが日本の為に命を落とされた方であれば、例え一般人であろうが軍人であろうが、きちんとお祀りして礼を尽くすというのが、この神社の目的なんじゃないかなと。
てか、僕はそもそも若い時、戦没者に対する感謝の気持ちとか全く持っていなかったんですよ。
うーん、こう書くと語弊があるなあ…(^ω^;)
つまりですね?
現在の教育がどうなのかは分かりませんが、少なくとも僕の世代はGHQによる自虐史を教えらえて育ったので、
日本は戦争で悪いことをした!(`・ω・´)
天皇の独裁政治!(`・ω・´)
って言う「戦争時代の日本=悪魔」というか、当時の日本に対して今の北朝鮮みたいなイメージを子供の時に持っていたんですね。
だから僕は、自分の国に誇りを持てない子供でした。
社会の授業ではガチでそう教わりましたし、恐らくそういう方、結構いらっしゃるんじゃないかな?
今はインターネットの普及によって自分で色々調べられるので、そういうのは払拭することが出来たし、多くの犠牲の上に今の平和な日本がある事に感謝の気持ちを持っています(^ω^)
てか、自分の生まれた国に誇りを持てないって、子供がかわいそうだと思いません?
戦争についてきちんと教えるのはもちろん大切だし絶対必要、でも罪のない子供に背徳感まで背負わせる教育はいかがなものかと思っちゃいます。
そこは、日本人で良かったって素直に思ってもらいたいなあ、って…(^ω^;)
結局、現代日本人の投票率の低さや国政への興味のなさって、こういう教育を続けてきた結果なんじゃないかなあ?って思うんですよね( 'ω' )
2. 靖国神社にまつわる問題
※開廷中の東京裁判
度々メディアやニュースで取り上げられている靖国神社ですが、神社にまつわる問題についてちょこっとだけ書きますね。
ニュースで取り上げられる問題として、
「首相の靖国参拝と近隣諸国の反発」
これが一番多いんじゃないですかね(^ω^;)
首相が靖国神社を参拝すると、某近隣諸国が騒ぎ出し、そのことがよくメディアで取り上げられます。
では、なぜ首相が靖国神社を参拝すると、近隣諸国が騒ぎ出すのか?
諸説あるとは思いますが、つまり…
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てな感じでしょうか?( 'ω' )
いやまあ、もっと複雑な背景があるし、諸説あるんでしょうけど。
僕としては、国のトップが「国を守ろうとして戦って亡くなった人」に感謝し、平和を誓うことが何が悪いんだろう?
って感じなんですけどね(^ω^;)
逆に、
国に命を捧げた先人に対して、何もしないほうが国のトップとして問題なのでは?
っていうw
また、近隣諸国の方々がよく「A級戦犯が祀られている」ことを問題視していますが、東京裁判での「戦犯」の定義は、
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の3つがあり、これはそもそも「犯した罪の重さ」によって分けられているのではなくて「種類・区分」を表しているだけなんですね。
つまり、A級だから罪が重い、B級だから罪が軽いではないということ。
だから、近隣諸国がなぜA級戦犯の合祀には抗議して、B級・C級には言及しないのかよう分からんのですw
A級が一番重い罪というなら、A級に偏る理由がまだ分かるんですけどね(・ω・)
まあ、さらに掘り下げればこの「〇級戦犯」という表現自体も、連合国が日本を有罪にするために急遽こしらえた当時の国際法には存在しない罪で、東京裁判自体が不当な出来レースだったそうなので、そこからしてどうなんだ?って感じですけど。
だってそんなこと言ったら、当時もともと国際法で禁止されていた一般人の殺害(原爆投下、空襲)をやらかしたアメリカだって裁かれるべきですもんね(^ω^;)
一方的で理不尽にも思えますが、これが「戦争に負ける」ってことなんでしょうねぇ…(´・ω・`)
3. なぜ神社なん?
さて、ここでひとつ疑問が(´・ω・`)
日本人の感覚だと「亡くなった方=お寺」、つまり仏式ですよね?
なのに、
なんで死者を祀るのに、靖国は神社という形を取っているのか?
って思いませんか?
僕が思うに、明治初期に「神仏分離政策」ってのがありましたよね。
神仏分離ってのは、明治政府が神道を国教化するために打ち出した国策なのですが、つまり「神と仏を一緒にすんな」ってやつです。
この政策がきっかけとなって、全国では「廃仏毀釈運動」がおこり、各地で寺院や仏具の破壊が行なわれたそうです。
なんと罰当たりなっ…!!( ºωº ; )
つまり、当時は世の中の機運が「神道推し」だったわけですね。
靖国神社の始まりは明治2年なので、時代も一致しますし、そういう流れで神社に祀られることになったのではないかと思います。
あ、これはあくまで個人的な推測ですがw
4. 靖国神社へのアクセス
靖国神社へのアクセスですが、東西線・半蔵門線・都営新宿線「九段下駅」出口1から出て徒歩5分ほどなんですが…
今回僕は、都営新宿線「市ヶ谷駅」から向かいました。(A4出口から徒歩10分)
まあ、なぜこっちの駅を選んだかと言うと、理由としてはコレです(^ω^)
ビュレホ~♪(*´ω`)
市ヶ谷駅周辺は桜がきれいなんですよね~♪
この川みたいなものは、かつて江戸城の外側の堀りだったものです。
で、市ヶ谷駅から靖国神社までは靖国通りをテクテクと歩いていくのですが、この靖国通り沿いも桜がたくさん植えられているので、終始桜を楽しむことが出来てオススメですよ♪
5. 第一鳥居
市ヶ谷駅から歩いて約10分、靖国神社の「第一鳥居」に到着しました!
ちょ…超でけえ…( ºωº ; )
いつも来る度に思いますが、この鳥居がめっちゃでかいの!!
で、参道もめっちゃ広々してて、なんか全体的にスッキリしている印象です。
この鳥居は昭和49年(1974年)に再建されたもので、高さは25mもあるんだとか!
この日は左側が工事していたのでちょっと残念でしたが、まあしゃーないね(^ω^;)
さっそく鳥居をくぐってすぐ右側を見るとちょっとした広場?公園?遊歩道?っぽくなっていて、すでにたくさんの桜が!!
さすが桜の名所っ!!( ºωº ; )
もうここだけでも花見できるレベルwww
こちらにはいくつか碑が置かれており、その中に「田中支隊忠魂碑」というひと際目立つ石碑がありました。
田中支隊とは、大正7年(1918年)の第一次世界大戦当時、シベリア出兵の際に編成された歩兵部隊のこと。
約20倍の敵軍と戦闘になり激戦の末、負傷した5名を除き全員戦死されたそうです。
そして昭和9年、生き残った方々が田中支隊の兵士を称え、慰霊の為に建立したものなんだとか。
異国の地で絶望的な状況に置かれた兵士の方々の心境は、現代人からすると想像も出来ないくらい過酷で厳しいものだったでしょうね(´;ω;`)
6. 大村益次郎像
第一鳥居からすぐ正面に見えてくるのが、こちらの「大村益次郎」の像になります。
初めてその名前を聞く方もいらっしゃると思うので、ざっくり説明すると…
|
という、日本軍と靖国神社に関係の深い方だそうです。
確かにこの経歴なら、靖国に銅像があっても不思議ではないですねー( 'ω' )
こちらの銅像は明治26年(1893年)に造られた、日本初の西洋式銅像なんだそうですよ。
大村益次郎の像から、更に参道を進んでいくと、こちらの「第二鳥居」が見えてきます。
この第二鳥居は、明治20年(1887年)に建てられ、青銅製の鳥居としては日本一の大きさなんだとか。
そして第二鳥居の先にあるのが、こちらの「神門」です!
7. 神門
写真だと分かりにくいかも知れませんが、
この神門もめっちゃでけえ!!(´°д°`)
かなり状態がきれいな神門なので、結構最近建てられた神門かと思いきや、昭和9年(1934年)に建てられたものだそうです。
さて、さっそく手水で清め…
てか手水舎もでけえ!!(´°д°`)
この手水舎は「大手水舎」と言い、昭和15年(1940年)に奉納されたものだそうです。
さあ、いよいよ神門をくぐって社殿へ向かう訳なのですが…
扉を開けるとそこは…
桜色の世界でした…*:.。.:*(´∀`*)*:.。.:*: ゚
(扉はずっと開いてましたがw)
やっべえ!!
めっちゃキレイ!!(*´Д`)
これは桜の名所になるわけですわー(*´ω`)
初めてこの季節に靖国神社に来ましたが、ここまでとは思ってなかったぜw
桜って日本人にとって特別だし、異国の地で桜を見れずに亡くなった方々のために、たくさん植えられてるのかなあ?(^ω^)
ああ~、来て良かった~♪
参道のすぐ右手では、所狭しと「これでもか!」ってくらい桜が乱れ咲いてましたw
せっかくなので、撮影してきた桜の写真をいくつか載せていきますね!
因みに、神門をくぐってすぐ右手にはこちらの「大燈籠」があります。
こちらは1935年(昭和10年)に奉納された日本一の大きさを誇る燈籠だそうで、日清戦争から満州事変までの軍の戦闘場面が描かれていることから、終戦後GHQによって撤去させられそうになった経緯があるそうですよ(^ω^;)
8. 中門鳥居・拝殿
こちらは神門の先にある「中門鳥居」と「拝殿」になります!
すごく立派な拝殿ですよね!(゚∀゚)
この中門鳥居は平成18年(2006年)に建て替えられたものだそうで、「中門」という名称は、かつてここに門扉があったことに由来しているとのこと。
また、拝殿は明治34年(1901年)に建てられたものだそうです。
僕的に、靖国に関しては神社と言っても願掛けをするのではなく、
「悲惨な戦争を忘れず、今ある平和に感謝を捧げる場所」
と考えているので、こちらではいつも感謝を申し上げています。
で、ここで注意事項がひとつ!
靖国神社では、この「中門鳥居」から先に入って、社殿を正面から撮影するのはNGですのでご注意を!
中門鳥居の外からであれば大丈夫だそうです。
また、警備の方に聞いたところ、横からであれば拝殿近くからでも写真OKとの事でした。
拝殿でご挨拶を済ませた後は、続いて境内を見て回ります。
9. 能楽堂
こちらは明治14年(1881年)、岩倉具視らによって東京の芝公園に建てられた「能楽堂」で、明治36年(1903年)こちらに奉納、移築されたものだそうです。
10. 桜の標本木
そして、能楽堂の右隣にあるのが、こちらの「桜の標本木」です。
この桜の木は、東京で桜の開花宣言を行う基準になっている木で、この木に一輪でも花が咲けば「開花宣言」が出されるんだそうですよ(^ω^)
追記:2020年3月14日
こちらが2020年3月14日、東京で桜の開花宣言が出された時の桜の標準木です。
11. 神池庭園
こちらは神社の裏手にある「神池庭園」になります。
この庭園は明治の初めに造られたもので、平成11年(1999年)に整備・復元工事が行われたそうです。
ベンチも置かれているので、休憩するのに最適な場所です!(^ω^)
庭園は回遊式(庭の中を歩いて景色を楽しめる形)になっていて、庭園の中には「靖泉亭」という茶室や、小さな滝なんかもありました。
うーん…景観は素晴らしいんだけど、後ろのビルがちょっと残念…(´-ω-`; )
また、神池庭園の近くにはこちらの「守護憲兵の碑」がありました。
説明書きによると「昭和20年3月10日の東京大空襲の戦火が靖國の神域を襲うが、神殿を挺身護持したのも憲兵であった」と書かれていました。
つまり、憲兵がこの神社を身を挺して守ったってことですよね?( 'ω' )
ほら、ドラマや映画だと、みんな憲兵から逃げてるじゃないですかw
なので、憲兵って融通利かなくて、なんか妙に威張ってて、主に人を取り締まるっていうイメージがあったんですよね。
見つかるとやべえ!(゚д゚ ; )
みたいなw
でも、憲兵の皆さんはこういうお仕事もされてたんですねー( 'ω' )
12. 靖国神社の御朱印
こちらが、靖国神社で頂いた「御朱印」です。
実は今年2019年で、靖国神社は創立150年の節目の年だそうです。
昨年に御朱印を頂いた時は、右下の青いスタンプはなかったので、もしかすると今年しかこのスタンプは押してもらえないのかも?
初穂料は300円でした。
13. 遊就館
さて、続いては靖国神社もうひとつの見どころ!
「遊就館」に向かいます!
1) 遊就館とは?
遊就館とは、幕末から第二次世界大戦にかけての時代、戦没者の遺品や軍事関係の資料・兵器などを展示している博物館になります。
明治15年(1882年)に開館した、日本最古にして最初の軍事博物館だそうです(^ω^)
館名の由来は、中国古典「荀子」の「君子は居るに必ず郷を擇び、遊ぶに必ず士に就く」から「遊」と「就」を採用したとのこと。
収蔵品は約10万点にも上り、戦争にまつわる品々や血染めの日章旗、遺影なども展示されています。
開館時間 | 9時~16時30分 ※みたままつり期間中(7月13日~16日)は、9時~21時 | |
拝観料 | 大人 | 1000円 |
大学生・高校生 | 500円 | |
小学生・中学生 | 300円 | |
障害者手帳保持者 | 無料 | |
撮影可能エリア | 1階玄関ホール・大展示室のみ | |
売店 | 靖国神社に関する書籍、日章旗や軍旗、自衛隊グッズを販売 |
遊就館には撮影OKな場所と、撮影NGな場所があり、屋外、1階ホール、大展示室のみ撮影することが出来ます。
なので、撮影OKだったものを一部ですが、いくつかご紹介したいと思います!
てか、遊就館の展示物においては、なかなか普段見られるものではないですし、白黒写真で見るのとは全然違うのでとても貴重な体験になると思いますよ(^ω^)
2) 屋外の展示物
ではまず、遊就館の屋外に展示されているものから見ていきましょうか~(^ω^)
特攻勇士の像
こちらは言わずもがな、特攻隊として敵艦に身を投じ、命を落とした方々の慰霊のために制作されたブロンズ像です。
護国海防艦の碑
こちらは「護国海防艦の碑」になります。
海防艦とは戦闘艦艇の一種で、主に沿岸や領海警備、船の護衛などを行う艦のことで、戦時中はその多くが沈められてしまったんだとか。
この碑の下は一面地図になっているんですが、赤い印が付いている部分が沈没した場所を示しているんだそうです。
パール判事 顕彰碑
こちらは2005年(平成17年)に建てられた、インドの法学者:ラダ・ビノード・パールの顕彰碑になります。
ところで皆さん、パール判事ってご存知ですか?
知らない方にとっては、
インドの法学者の碑がなぜここに?
ってなりますよね?( 'ω' )
実はこのパール判事という方、東京裁判の判事(裁判官)を務めた方で、唯一日本側の完全無罪を主張してくれた方なんです。
戦勝国から選出された11名の判事のうち、国際法の専門家はこの方のみだったそうで、残り10名の判事は日本に有罪判決を下したのに対し、この方だけは違っていたんですね。
パール判事の主張をザックリ言うと、
裁判自体が戦勝国による一方的な茶番である 日本は侵略国家ではなかった 証拠収集の妥当性が不公正である、などなど。 |
といった内容だったそうです。
こういう方が一人でも居てくれたってのは、日本人として本当にありがたいですよね( ´ω` )
あまり日本人に知られていないというのが残念ですが…
また、パール判事の有名なエピソードとして、原爆慰霊碑の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」を見て、
日本人が原爆を落としたわけではないのに、なぜ日本人が謝るん?(´・ω・`)
と、疑問を呈したそうです。
た、確かにっ!!( ºωº ; )
母の像
こちらは昭和49年(1974年)に建てられた像で、戦争で父親が亡くなった後、母親が育ててくれたことに感謝を表す像だそうです。
鳩魂塔/戦没馬慰霊像/軍犬慰霊像
こちらは、戦争によって失われた動物を慰霊するための像ですね。
軍馬、軍犬のほか、鳩の慰霊像もありました。
昔は情報伝達手段として伝書鳩が使われていたので、軍事的にももちろん採用されてたんでしょうね( 'ω' )
陸用加農砲
こちらは「加農砲/かのんほう」、つまり大砲の事ですね(・ω・)
↓こちらは安政元年(1854年)に鋳造され、異国船の襲来に備えて品川台場の砲台に設置されていたもの。
↓こちらは嘉永2年(1849年)、薩摩藩で鋳造されたものだそうです。
てか、カノン砲って漢字にすると「加農砲」って書くんですねー!( 'ω' )
知らんかったわーw
なんかジュクジュクして治りが悪そうな名前w
3) 玄関ホールの展示物
さて、続いて遊就館1階に展示されているものを見ていきます!
零式艦上戦闘機 五二型
先ず最初に目に飛び込んでくるのがコレ!!
そう!有名な「零戦/ゼロセン」ですね!
零戦は三菱重工業が開発し、第二次世界大戦で使用された日本海軍の艦上戦闘機になります。
なんと当時、1万機以上も生産されたんだそうです!(´°д°`)
蒸気機関車C5631
続いてはこちらの「蒸気機関車 C5631」です!
この機関車は昭和11年(1936年)に日本車輌で製造され、石川県を走行していたものだそうです。
八九式十五糎加農砲・九六式十五糎榴弾砲
また、屋外だけでなく玄関ホールにも「加農砲」がありました。
おお!屋外にもあった加農砲よりでかい!!(´°д°`)
なんか僕、大砲って黒鉛色のイメージだったんですけど、こういう色のもあるんですねー!
この大きな加農砲は1920年代から30年代初期にかけて採用されていたものとのこと。
てか、これを移動させたり運搬したりすんの…
めっちゃ大変そう…(^ω^;)
えーっと読みは「はちきゅうしきじゅうごせんちかのんほう」だそうで…
長いわ!!w
そして、奥にある小さめのが1930年代中期に採用されていた「きゅうろくしきじゅうごせんちりゅうだんほう」とのこと。
だから長いわ!!w
九九式二十粍機銃
こちらは「きゅうきゅうしきにじゅうみりきじゅう」という日本海軍で採用された銃で、零戦に搭載されていた航空機銃だそうです。
てか、軍事については全然詳しくないけどさ、せめて銃くらいはもうちょっと覚えやすい名前でも良かったのでは?w
零式艦上戦闘機六二型 座席
そしてこちらは、零戦に使われていたパイロットの座席とのこと。
んー、なんだか冷たそうというか、お尻が痛くなりそうな感じですよね(^ω^;)
これ、搭乗されていた方々は座ってるのかなり大変だったんじゃ…?(´・ω・`)
当時クッションとか取り付けられてたのかな?
さてさて!
ここからは拝観料を払って、館内を見て回ります。
パネルの展示や遺影、遺物などを見ながら歩くんですが、ここはやっぱ場所が場所だけに何とも言えない気持ちになります(^ω^;)
で、ちょっとナーバスになりつつ、展示物を見ながら回っていたところ、ちょっと不思議なことがありました。
あ、別に心霊現象とかそういうのではないのでご安心をw
遊就館には祀られている方々の遺影が壁一面に貼られているフロアがあって、かなりの面積、ズラーっと遺影が並んでるんです。
で、どこに誰の遺影があるのか探せるように、遺影の名前一覧表(あいうえお順)がファイリングして置かれているんですよ。
でね?
何の気なしにパッとファイリングのページを見開いたらね?
自分と同じ名前の故人名が書かれてたんですよ!!( ºωº ; )
苗字は違ってたんですけど、これにはホントびっくりした!!
いや、なんで下の名前ごときで、と思うでしょ?
と言うのも、オーソドックスな名前なら珍しくもないんでしょうけど、僕の下の名前、結構珍しいんですよw
これまでの人生で、同じ漢字・読みともに同じだった人には一度たりとも会ったことがないんですw
芸能人でも同じ名前の方はいないですし。
なのに、一発で同じ漢字で同じ名前…
確率どんだけだよっ!?
こんなことってある!?www
ってなるよねw
取りあえず、その方の遺影を探して、僭越ながら手を合わさせて頂きました。
いやはや、この時はホントビックリしたあ~(^ω^;)
ファッ!?( ゚д゚)
って変な声出ましたもんw
てか、敢えてそのページを見せられた感もちょっとするんだよね(^ω^;)
実際のところは分かんないですがw
さて、展示も終盤に差し掛かり、最後「大展示室」に行き着きます。
4) 大展示室の展示物
こちらが「大展示室」になります!
それでは展示物を見ていきましょうか~(^ω^)
九六式中戦車 チハ
まずドーン!と存在感を放っているのが、こちらの中戦車「九六式中戦車 チハ」です。
この戦車は昭和13~19年(1938~1944年)にかけて、総計2,123輌が生産され、主力戦車として採用されていたとのこと。
ところで、
なんで「チハ」なん?( 'ω' )
って思いません?w
チハの由来は「中戦車」の「チ」と、中戦車で3番目に開発された事から「イロハニホヘト」の「ハ」で「チハ」なんだとか。
理由が分かると、なるほどーってなりますよねーw
てことは、二番目に開発された中戦車は「チロ」?
めっちゃ犬っぽいwww
沖縄や南国諸島で収集された遺品の数々
続いて、僕的に一番目を引いたのがこちらの品々。
こちらは南方諸国や沖縄で収集された遺品の数々で、丸めがねや弾痕の残ったヘルメット、万年筆、飯ごう、水筒などが展示されていました。
あーなんか、戦車とか戦闘機とかはあまり身近じゃないけど、個人の私物となるとなかなか来るものがありますね…
持ち主に思いを馳せずにはいられませんでした(´;ω;`)ブワッ
四年式十五糎榴弾砲の砲弾と薬筒/九二式重機関銃/九六式二十五粍機銃
- 左奥
四年式十五糎榴弾砲/よねんしきじゅうごせんちりゅうだんほう(砲弾・薬筒のみ)
大正4年に正式採用 - 右奥
九二式重機関銃/きゅうにしきじゅうきかんじゅう
1930年代に採用 - 手前
九六式二十五粍機銃/きゅうろくしきにじゅうごみりこうかくきじゅう
第二次正解対戦で使用された対空気銃
日中戦争で使用された九二式重機関銃(1941年)
艦上爆撃機「彗星」/ロケット式推進機「桜花」
こちらは海軍の艦上爆撃機「彗星」と、ロケット特攻機「桜花一一型(模型)」になります。
「彗星」は日本海軍の主力機で、サイズは零戦とほぼ同じ。
愛知航空機が開発し、昭和17年に正式採用された爆撃機で、特攻機としても投入された機体です。
また、上に吊るされている白いのが「桜花一一型/おうか いちいちがた」です。
名前こそキレイですが、人間が乗り込んで敵軍に突っ込むための「特攻兵器」になります。
つまり「死ぬこと」を前提として作られた兵器なんですね…(´・ω・`)
なのでこの桜花、連合国側からは「馬鹿」にちなんだ「BAKA BOMB/馬鹿爆弾」というコードネームで呼ばれていたんだとか。
まあ、敵に突っ込んで死ぬための兵器なんて、外国から見れば理解に苦しむし狂気を感じるよね(^ω^;)
桜花による特攻では、55名の方が戦死されたそうです。
という訳で以上、今回は「靖国神社」についてご紹介しました!
前半と後半のギャップがすんごいことになっちゃいましたねw
桜ビュレホ~♪(*´ω`)
からの、
これが戦争…(´・ω・`)
みたいなw
でもね、戦争の遺物とかを見るとちょっと心にズシンと来ますが、先人が生きた時代や戦争について知ることは大事ですからね。
そして、靖国神社に行くと、
日本人なら一度は参拝すべきだなあ…(´・ω・`)
と、いつも思います。
多くの人の未来が戦争によって失われたこと。
今の平和が当たり前ではなく、過去の犠牲の上に成り立っているってこと。
そして、決して遠い昔の話ではなく、たった70年前(祖父・祖母の時代)の出来事であること。
改めて色々考えさせられますね。
教科書だけでは絶対に知り得ない歴史と、今ある平和の大切さを、自分の目で見て肌で感じられる場所だと思います。
新しくやって来る令和の時代も、どうか平和な時代でありますように!(-人-)
まだ靖国神社や遊就館に行かれたことがない方は、是非一度足を運んでみて頂きたいなと思います(^ω^)
ではまたー!
靖国神社
〒102-8246 東京都千代田区九段北3丁目1-1
TEL:03-3261-8326